屋敷を飛び出した香流は、夜半になって海辺の別荘に姿を現した。 夜の国道をとぼとぼと一人で歩く姿を不憫に思ったのか、親切なトラックの運転手が近くの駅まで乗せてくれた。 財布も鍵を持たずに家を飛び出した彼女は、建物の中に入ることもなく庭から続くテラスにしつらえられたブランコに腰を下ろし、静かに揺られていた。 秋の夜風に枝葉だけになったミモザの木が揺れている。 最初に見た時は、鮮やかな黄色い花が盛りだった。 しなやかな枝一杯に咲き揃った小さな花を見て、その可憐な美しさに感激したのを覚えている。 そして、最後にこの木を見たのは去年の今頃だっただろうか。 やはり秋風が吹いていたように思う。 もう二度とここに来ることはないだろう、とあの木の根元に小さな秘密を埋めた。 だけど、また私はここに来た。 私だけがとり残されて…まだここにいる。 ブランコを止めると、香流は手入れがされた庭を横切り、引き寄せられるかのようにミモザの木に向かって歩いていった。 まだ、ここに眠っているのだろうか。 彼女は徐にその場に跪くと、両手で土を掘り始めた。 固く湿った土は小石も混じっていて、容赦なく彼女の手を傷つける。少し掘り下げた頃には爪が割れ指先に血が滲んできたのが分かったが、今の香流にはその痛みすらも感じられなかった。 どのくらいそうしていただろうか。 指の先に何か固いものが触れた。最後の力をこめてそれを掴み出すと、掌ほどの小さな缶の箱は錆と泥にまみれながらも埋めた時と同じ形で姿を現した。 そのふたをそっと開く。 中には小さな手編みの靴下が一足、折りたたまれて入っていた。そしてその靴下の中に包まれるようにして入れられていたのは、彼女が夫から最初に贈られた結婚指輪だった。 生まれてくる赤ん坊のために初めて編んだ白い靴下。 もう片方は未だ編みかけのままで。 そしてこれを履く小さな足がこの世の光を見ることはなかったのだ。 すべては自らの罪。 「ごめんね…」 香流はその場にうずくまり、土の中から掘り出したものたちを掻き抱いた。嗚咽が喉からこみ上げてくる。 服も腕も足も、身体中泥だらけだが、もうそんなことは気にならなかった。 今まで自分に封じてきた記憶の一つ一つが走馬灯のように甦り、彼女を傷つけていく。 何故私だけが生き残ったの? 何故私も一緒に連れて行ってくれなかったの? 何故…? 香流は暗闇に向かって語りかける。 「結局私がしたことはあなたの命を奪い、自分をもっと孤独にしただけだった。 私にはあなたしか、あなたしか残されていなかったのに」 急に強い風が吹きつけ、ミモザのしなやかな枝を大きく撓らせた。 それはまるで罪人を打ち据える杖のように、低く唸りをあげて彼女の頭上を掠める。 私はきっと、あなたに許してはもらえない。 だからここで、一人ぼっちで罰を受けているのだ。 その時、彼女の中で辛うじて正気を保っていた最後の糸が切れた。 もう何も聞きたくない。 何も考えたくない。 何も感じたくない。 何も…。 香流は自らの心に見えないヴェールをまとい、自分の中に引き篭もった。 そして周りのすべてから自分を切り離した。 もう誰もこの平穏を邪魔する人はいない。 それは孤独な安堵感だったが、少なくとも無防備でぼろぼろになった彼女の心をそっと守ってくれた。 「一目でいいからあなたに…会いたかった」 香流は闇にむかってそう呟くと、大事そうに白い毛糸を胸に抱き、静かに涙を流し続けた。 それはこの腕に抱くことのできなかった、我が子に注ぐ尽きることのない愛情と、償いきれない罪への後悔と贖罪の証だった。 庭のブランコに座ったまま一晩中潮風を浴び続け、体中が冷たく凍えていたにもかかわらず肺炎を起こさなかったのが不思議なくらいだった。 翌朝、偶然彼女を見つけたのは、別荘の管理人夫妻だった。 自分の内に引き篭もってしまった香流は、そこに人がいるという気配すら感じさせなかったようで、彼らでさえ生垣のあいだのくぐり戸が開いていなかったら不審に思い、裏庭とテラスをのぞくことはなかっただろうと言っていた。 居間の窓際に置かれた安楽椅子に沈み込むように座る彼女は、痛々しい姿を晒していた。 体中にこびりついたであろう泥は管理人の妻がきれいに始末していたが、拭っても落ちない泥汚れは彼女の衣服全体に及び、黒っぽいシミを残している。 切り傷だらけで爪をはがしたという両手の指は胸の上に置かれ、巻かれた清潔な包帯がより一層白く見えていた。 「奥様、旦那様がいらっしゃいましたよ」 彬が来たことに気付いた管理人の妻が呼びかけるが、香流は何も聞こえなかったかのように視線を窓の外に向けたまま身動き一つしなかった。 居間の入口でその光景を見て、呆然と佇む彼を気遣いながらも管理人が言った。 「奥様はずっとあのご様子です。誰が話しかけてもまったく反応がなくて」 わざと足音を立てて側に行くが、彼女は振り向くことさえしない。 「香流」 頬に手を当てゆっくりとこちらを向かせるが、その視線は彼を通り越し、何もない空間に向けられたままだった。 彼女の目は周りのどんなものも写してはいなかった。虚ろな表情に生気は感じられず、ただ前を向いてぼんやりとそこに座っている。 彬は恐怖に取り付かれ、強く彼女の肩を掴むと乱暴に揺さぶった。 「香流、返事をしてくれ」 しかし香流は虚ろな目で空を見上げ、彼にされるがまま振り動かされている。 手を放すと、支えを失った体はずるずると椅子の背から滑り落ちていった。 「一体何が…」 彼の目に困惑が浮かぶ。 「あの、旦那様、これを…」 部屋の隅でしばらく二人の様子を見ていた管理人の妻がおずおずと差し出したのは、彼が最初に贈った結婚指輪と手編みの小さな白い靴下だった。 「今朝見つけたときに、奥様が大事そうに抱えていらしたものです」 それを受け取る彬の手が震える。 「…くっ」 その瞬間彼は全てを悟った。奥歯を噛み締めた口から苦悩の呻き声が漏れる。 香流はすべて思い出してしまったのだ。 自らが封じた辛い記憶を。 そしてその事実に耐え切れなかった彼女の心は―― 壊れた。 彬はその場にがっくりと膝をつくと、香流に縋りついた。彼女はされるがまま彼に身体を預けてくる。 確かに彼女の身体は彼の元に戻ってきた。 しかし心をどこかに置き忘れたようになったこの姿で、はたして帰ってきたと言えるだろうか。 彼の手から零れ落ちた指輪が鈍い音をたてて床を転がるが、彼女はそれにさえ反応しない。 息をしているということ以外のすべてを拒み、感情を閉ざしたその姿は生気がなく、まるで人形のようだった。 HOME |